なんでもかんでもはむり

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『ブラックパンサー』

www.youtube.com

2018年3月1日公開、134分

2016年公開の「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」でマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)に初登場した新たなヒーロー、ブラックパンサーを主役に描くアクション映画。アフリカの超文明国ワカンダの若き国王ティ・チャラが、漆黒のスーツと鋭い爪を武器に戦うブラックパンサーとして活躍する。絶大なパワーを秘めた鉱石「ヴィブラニウム」が産出するアフリカの国ワカンダは、その恩恵にあずかり目覚しい発展を遂げてきたが、ヴィブラニウムが悪用されることを防ぐため、代々の国王の下で、世界各国にスパイを放ち、秘密を守り通してきた。父のティ・チャカの死去に伴い、新たな王として即位したティ・チャラは、ワカンダの秘密を狙う元秘密工作員の男エリック・キルモンガーが、武器商人のユリシーズ・クロウと組んで暗躍していることを知り、国を守るために動き始めるが……。主人公ブラックパンサー=ティ・チャラ役はチャドウィック・ボーズマン。監督を「クリード チャンプを継ぐ男」のライアン・クーグラーが務め、同作で主人公クリードを演じたマイケル・B・ジョーダンが、ブラックパンサーを追い詰める強敵エリック役で出演。(映画.comより引用)

 

この映画、Kendrick Lamar率いるTop Dawg Entertainmentがサントラを担当するとなれば見ないわけにはいかない。3月1日の封切と同時に劇場に歓喜の顔で走りよる群衆をよそに、ぼくは『アイアンマン2』(2010)以降の13作品を見ることに忙しかった。そしてついに、ぼくは劇場に足を運ぶ権利を得た(とはいえ、今作はブラックパンサーの単独映画1作目ということで、全然MCU見たことないよ!という人でも十分楽しめるのだが)。ぼくは2PacのTシャツを着て(2Pacと「ブラックパンサー党」の関係についてはご自分で調べていただきたい)勇んで劇場に向かった。

この映画を監督であるライアン・クルーガー史から読み解いた見事な批評を宇多丸氏が行っているので、公式HPにある書き起こしを是非読んでみてほしい。ぼくは残念ながら『クリード/チャンプを継ぐ男』(2015)をまだ見れていないので、その辺の話は一切できない。

www.tbsradio.jp

そしてこれまた素晴らしいFUZEによる記事の中でも指摘されていることだけども、この『ブラックパンサー』という作品が単体の映画作品としてみた時に傑作と言えるかどうかには疑問が残る。

www.fuze.dj

なんだか人の評論を紹介するばかりになってきてしまったが、公開から2週間以上もたっていればこうなってしまう。

 

でもぼくがこの映画を見て一番感じたのは、ぼくたちがこの映画に「叱られている」ような気分になったということだ。

最後の演説のシーンの「賢者は橋を架け、愚者は壁を築く」と言う言葉に顕著なように、この映画は単なるアメコミ映画ではなく、明らかにトランプ以降/ブラックライヴスマター以降のエンターテインメント作品であるということを意識して作られたものである。

そのような映画の中で最近公開されたものとして頭に浮かぶのは、実際に起きた暴動を描いた『デトロイト』、街自体は架空であるもののミズーリ州という土地の雰囲気を生かして極めてフィクショナルであると同時にリアリズムを感じさせる作品であった『スリー・ビルボード』が挙げられる。その他にも『ストレイト・アウタ・コンプトン』は完全に伝記映画であるし、恥ずかしながら未見であるが『ムーンライト』も基本的にはリアル志向の物語であると理解している。今作の監督ライアン・クーグラーの長編デビュー作『フルートベール駅で』(2013、申し訳ないが未見)も、警官による暴力をドキュメンタリックに撮った作品であるらしい。とにかく、黒人をはじめとするマイノリティのエンタメ作品というのは常に「史実」が根底にあり、「リアリティ」を武器として作られてきたのである。

そこにきて、アメコミのような純度100%フィクションのエンターテインメントというパッケージにおいてこのようなトランプ以後/BLM以後の作品を作ることの意義とは何か。それを考えた時に、ぼくはこの映画に「叱られている」と感じたのである。

フィクションである、ということはそれは事実ではないことを意味する。我々が住む世界にはブラックパンサーのようなかっこいいヒーローは不在であるし、ワカンダのように現在の問題を解決するために、弱者を救済するために献身的に貢献してくれる素晴らしい国なんて存在しない。悲しいかな、それが現実である。ノンフィクションである。

上記のFUZEの記事の中ではこの映画の結論を「中庸だ」と非難気味に評しているが、フィクションというものはそういうものではないか。どちらか一方にしか取れないフィクションはつまらない。フィクションの醍醐味は、体験後にノンフィクションに引き戻されることにある。ホラー映画は家に帰ってからもその霊が自宅にいるのではと思う(いないとはわかっていながら)からこそ楽しめる。「お化けはいますよ」と大真面目に伝えられるのでは、映画を楽しむどころではない。

この映画は、フィクションがフィクションたる純然たる力によってぼく達を叱る。この世界は、これほどに荒唐無稽で現実離れなヒーローを必要とするほど狂っていてゆがんでいて、助けを必要としているのかと。ヒーローなんかいないんだから、自分たちでどうにかしろよ、と。

この映画を見た我々は帰路、腕をクロスするあのしぐさをしながら、現実に絶望する。ブラックパンサーもワカンダもないこの世界で、自分に何ができるのか、何をするべきなのかを自問しながら、現実に引き戻される。このようなフィクションの愉しみをこれまでのマイノリティ映画よりも高い純度で提供してくれることに、大きな喜びを感じようではないか。

MCUは超人気シリーズであるがゆえに、日本にはそのような絶望と自問を経験した人数が公開4日だけでも30万人以上いる。アメリカにはもっといる。世界にはもっともっといる。そのことに、大きな喜びを感じようではないか。