「にわか」には何が足りないか

YouTubeのコメント欄でよく見る「にわか」という言説。これまでは「あーあー、最近ハマったばっかりで知らないだけなのに、かわいそうに」といったスタンスでそれを見ていたんですが、身近にそれがわくと話は別。うざいしダサい。

 

例えば、留学先で日本人にあった時に「MCバトル見るの好きなんですよ!」と言われた。向こうはぼくがヒップホップが好きだという情報を聴いて好意的な意味でこれを言ってきたのだろう。ぼくとしてもなかなかヒップ・ホップ、MCバトルについて話ができる人間が周りにいなかったものだから、「まじで?うれしい」と思って話をした。高校生ラップ選手権の話、チプルソの話、GOLBYの話・・・最初は盛り上がった。

でも話の端々から、僕ほどはまっている歴も長くなく、ぼくよりは詳しくはないんだろうなという雰囲気は感じ取っていた(こうして出会った人間をすぐ自分より上か下で選別してしまうのが文化系マウンティング人間の悲しい性である)。そしてぼくはバトルビートをしようと、「RHYMESTERのさあ!」と切り出した。そしたら彼は「RHYMESTER?誰ですかそれ?」と言い放ちやがった。RHYMESTERという日本のヒップホップ界のレジェンドを知らないことは5億歩譲って許すとしても、その場で彼らの音楽に興味を持ってくれたならぼくも許す気になっただろう。そしてぼくが彼らの音楽がきっかけでヒップ・ホップによりのめりこむことになったのと同じように、彼にもぼくと同じ道を歩んでほしいという親にも似た慈悲深さで彼をやさしく包み込むこともできたはずだ。でも彼は続けた。「曲は聴かないっすね、興味ないんで」―はい、会話終了。その後は一度も口をききませんでした。

 

彼は、あらゆる文化を愛するうえで重要な三つの視点を欠いている。

 

①目の前の作品に真剣に向き合う

②作品の置かれた文脈に興味を持つ

③そこから着想を得て常に新しいものを探求する

わかりやすく彼を例にとっていうと、①の視点は彼も持っている(MCバトルを「作品」とするのであれば、だが)。十分すぎるくらい。そして②の視点を一切持ち合わせていないことになる。MCバトルにおける文脈とは、バトルの歴史、ひいてはMC達の音源作品、ビートに使われる過去の名曲、ひいてはヒップ・ホップそのものの歴史だ。彼はこれらに対して「興味がない」と言い放った。そして③の視点は例えば②で挙げたものに触れた時にさらに興味を持つであろうもの、例えば曲のサンプリングソースや言及されている映画や人物である。彼の場合②を欠いているのだから③にたどり着くわけがない。

このように、たいていの場合あらゆる文化の入り口となりえるようなもの(ヒップ・ホップで言うところのMCバトル、ロックで言うところのロキノン系)には②へのヒントがたくさんあるし、そしたら③の視点を持つのは自然な流れだ。

 

なぜ「にわか」が批判されるのか、それは①だけで立ち止まってしまうからだ。そこだけで十分楽しめると勘違いしてしまうからだ。だけど①は当たり前だけどずっといるような場所ではないわけで、そのうち当人は飽きてしまって、それ以前の段階、ゼロへと戻ってしまう。それって超もったいないし、なによりもダサくない?

②までせめて行ければ、「深く狭く」というスペシャリストになれる。③まで行ったら「深く広く」という最強の人間になれる。

もちろん②や③の段階まで行くのは大変だし、多くの時間やエネルギーを費やすこと。でもそれこそ尊いことだ、かっこいいことだという考えが世の中で共有されてないことが非常に歯がゆい。①のレベルにとどまってる自称「文化系」人間のいかに多いことか。我々のような人種は「オタク」だとか「ナード」というレッテルを張られておしまい。そして①のような人間が幅を利かしてイキったりするようになる(残念ながらそれがマジョリティだから)。世の中のおしまいですねこれは。

視野は広い方が絶対にいい。好奇心は絶やしてはいけない。ダサい人間にならないためには。