戦いとは、試されること。『ハクソー・リッジ』感想

映画「ハクソー・リッジ」を見てきました。

アポカリプト』以来となるメル・ギブソン10年ぶりの監督作品。今回のアカデミー賞では編集賞と録音賞を受賞(ほか作品賞などにノミネート)。アンドリュー・ガーフィールド演じる衛生兵デスモンド・ドスの生涯と戦地・沖縄での活躍を描いた戦争映画です。予告編はこちら。

戦争だけではなく、あらゆる戦いというのは「試される場」である。

スポーツではそれまでの練習の成果が、受験ではそれまでの勉強の努力が、恋愛では自分の魅力と相手との相性が、MCバトルではラップのスキルが、就活では自分の売り込み方が、裁判では正義が試される。そしてどんな戦いにも共通しているのが、「自分を貫けるか」という試練である。

自分を貫く、つまり自分が信じているものを最後まで信じぬくことができるか。それは仲間かもしれないし、自分の技術かもしれない。「信念」と言い換えることもできる。それを貫き通すことができなければ、勝利はない。「己との闘い」「人生とは戦いだ」という一見きれいごとに見えるこのような麗句も、この意味では真実を伝えてはいるのだ。そしてこの『ハクソー・リッジ』という映画は、まさしく自分を貫き通すという生き方の美しさを描いた作品である。

話はそれるが、『藁の楯』という映画を最近見た。大沢たかお演じるSPが藤原竜也演じる極悪殺人犯を守り抜く、という映画である。劇中、この殺人犯は一切の反省のそぶりを見せない。それどころか、「え、そこまで?」というくらいの裏切り、さらには犯罪行為を重ねていく。主人公以外の全員が「もう、こいつを守る意味なくね?」とあきらめかける。だが、大沢たかお演じる主人公だけはSPとしての矜持を守り続ける。その信念の貫きっぷりは美しく、どこかこの『ハクソー・リッジ』のデスモンドと通じるところがある。事実宇多丸氏も自身のラジオ番組内の批評でこの映画のことを引き合いに出していた。

話を『ハクソー・リッジ』に戻そう。デスモンドは敬虔なクリスチャンであり、「銃を持たない」「人を殺さない」という信念を持ったまま衛生兵を志願し入隊する。そういった彼の「信念」に対して、数えきれないほどの「試練」が待ち受ける。訓練もそうだし、実際に戦場に行ってからは容赦なく銃弾が飛び交う。「形だけ銃を持つだけでいいんだ」「相手が攻撃してきたらどうするんだ?」それらの試練に対して、彼は決して信念を曲げることなく、それを実際の行動に移すことで美しく回答していく。嘘くさいほどの正義感は、これが実話であるというそれはそれは分厚い額縁によって素晴らしい物語へと昇華していく。

その物語の語り部としての映像、これがまたすごい。にわか映画ファンなのでまだ『プライベート・ライアン』を見ることがかなっていないのだが、『ハクソー・リッジ』における戦闘シーンは凄絶の一言に尽きる。銃弾という音速に近い速度で飛び交う鉛の塊の恐ろしさが生々しく伝わってくる。一度目の着弾で兵士のヘルメットを吹き飛ばした刹那、容赦なく連射される弾丸の2発目、3発目が脳を貫く。ヘルメットは戦場で意味をなさない、教訓として覚えておいて損はない。カン、カンという金属が金属に猛スピードでぶつかる音が絶え間なく響き、圧倒的暴力が次々と兵士たちを飲み込んでいく。実際の戦闘が始まってからの約1分間はとにかくその世界で起こっていることに飲み込まれる。それを理解し始めるのに我々の脳は少しの時間を要するのだ。それほどまでに克明に描かれた「現実」がまた、主人公の「信念」に揺さぶりをかける。―結局、それは徒労にすぎないのだが。

戦争、それは極限の戦いの場である。当然、そこで試されるものも極限である。生きるか死ぬか、殺すか助けるか。そんな極限の状況で主人公が持ち続けた信念はとにかく力強く美しく、普遍的な射程をもっている。この映画が多くの人に見られる必要があるのは、そういう理由からだ。